背番号零の演劇の出発点はいつも、「疑うこと」にある。それは、自らの内側に現在進行形で息づく作品の体制、射程範囲、規則や好みなどを徹底的に疑うことからしか、未知の表現に肉薄する方法はないと思うからで、そのための形式としての演劇の可能性に賭けてみる行為自体の繊細さと困難さとが、われわれのさしあたっての創作の動機となっている。作家と演出家のポジションが分離されている第一の理由は、作品を自己から一度切り離し、外部との接触によって絶えず変形するものとして捉えたいと願っているからだ。
第二回公演『絶筆往復書簡』では、演劇における発話の形式を疑い、再検討した一つの結果として、芝居のほぼ全編において、二つの場面が舞台の上下で同時に進行するという方法論を採った。言葉の意味を離れた、純粋な音のレベルで台詞を捉え直し、俳優や観客の聴覚――あるいは視覚や触覚――が、劇場の中で奇妙にうつろい、侵食しあう居心地の悪さそのものによって物語ろうとしたのだ。
無論、規定された表現の在り様に対してむやみに否定的であること自体に、なんらかの価値を見出す姿勢は愚かしい。だが、単純な「もっともらしさ」のリアリズムではなく、演劇的環境の特殊さを棚上げにせずに向き合うことで再構築されるリアリズムに漸近するためには、ある種の自己相対化が要求されることには、自覚的でありたい。何せ、作り手が創作の際に無意識の規定を持ち込むのはなにも言語に限った話ではなく、身体や空間など、作品のあらゆる要素に及ぶのだから。
例えば、種々雑多なスタイルの作品に柔軟に機能するようにあらかじめ設定された舞台空間は、作り手の意図にしたがっていとも容易に染色される。しかし、劇場がそうして自身の「零度」を獲得してゆくにつれて、そこで演じられる作品と臨場する観客の体験は、単なる閉鎖的なフィクションの内に集束してしまうのではないか?舞台空間が、重厚な建築と抽象性の高い内装によって外の風景や社会性から断絶させられてしまうならば、作品はただ虚空の中に立ち現れるだけの脆弱な幻影としてしか作用せず、けして外の世界へ、観客個人の生へと、折り返されることはないだろう。
劇場の中で/舞台の上で展開される物語を特権化することなく、観客の生きる現実の時間や空間をも内包した作品性を検討することは、今公演の出発点のひとつである。最寄り駅まで電車を乗り継ぎ、劇場まで直接足を運んで、俳優を眼前にしないと鑑賞できないという演劇特有の不自由さやローカルさは、裏を返せば日常生活と分け隔てられない一次的な記憶を観客に植え付けられるという、最大の武器でもあること。
この丸腰同然の武器のただ中にある身体は、では、どのように動き、どのような言葉を語るのか?この問いの答えを語るのではなく、答えになる語りを観客と共有したいとわれわれは考える。そのためには何が必要なのか、夢想するのではなく虎視してみたい。生活からけして離れることなく、虚構を現実に塗り変えるその瞬間まで、戯曲は単なる餌であり、演出もひとつの過程に過ぎない。作り手の自己を逃れ、外気に触れて初めて、ようやく「作品」はどうにか、慎ましくも「表現」と呼ぶに足るのだろうから。
背番号零の旗揚げ公演『赤闇みのキティ』で集計された来場者アンケートに書かれた感想の内訳を簡潔にまとめると、「難解/理解不能」80%、「生理的嫌悪」15%、「圧倒的支持/熱狂」5%という「惨々たる」としか言い様の無い結果で、われわれは思わず顔を見合わせてにやにやと笑い、「よし、次は『難解/理解不能』70%、『生理的嫌悪』20%、『圧倒的支持/熱狂』10%になるように頑張ろう」などと言ってはお互いを労い合った。2005年1月のことだ。
そのとき口に出さずとも共有されていたのは恐らく、「これは思った以上に困難な道程であるかも知れない」という予感である。或いは観客の世界観はわれわれが考えていた以上に狭いのではないか、とさえ思ったかもしれない。われわれが「理解されなかったから」ではない。困難なのは理解を得る道程では無く、理解を求めないことへの理解を得る道程であり、理解という言葉を再検討する道程なのである。
故寺山修司は言う、「我々は常に作品の一部にしか触れることは出来ない。我々が世界に対してそうであるように」と。全く同感である。「作品はすべて理解出来なければならない」、「理解出来ない作品は良くない」という固定観念を抱いている若い観客が全体の8割も存在すること自体が、そもそも現代演劇界の貧しさを象徴しているのではないかと敢えて問いたい。
勿論、劇作や演出の、或いは演技の、技術の未熟さ故に表現が観客との距離の間で歪められてしまうのは間々あることで、その様な失敗を回避する為に表現者は出来得る限りの努力を払うべきである。われわれは自身の努力不足を棚上げにするつもりは毛頭無い。けれどでは、「理解する」とはそもそもどういうことか?
「話されている言葉の意味が分かる」ということか。「役に感情移入できる」ということか。「演出家の意図が伝わる」ということか――そうして貴女は、「この作品を理解出来た」と、満足気に頷くのだろうか?それがどれほど危うく、そして些末なことであるか、想像してみたことがあるだろうか。そんな脆弱な、仮想的なコミュニケーションを求めて、観客は劇場に足を運ぶのか?答えは否である。
観客が真に演劇に求めているのは、劇場の非日常的な空気に、役者の持つ得体の知れない熱量に、浴びせられる言葉の引力に、身を委ねる快楽と、身を撥ねる贅沢なのではないか。劇場の空気と役者の熱量と言葉の引力と――断言してしまおう、すべては虚妄に過ぎない。
しかし妄想の強度は時に現実を凌駕するのではないかという、一縷の望みに愚直に縋ることを恐れたくはない、これはひとつの矜持である。演劇はメッセージの乗り物ではないし、況してや自己表現の手段でもない。それは役者の肉体と観客の肉体とが、互いを取り残し合おうと蠢く丁々発止の空間であり、戯曲の記憶と観客の記憶とを綯い交ぜにする為に企てられた、極めて暴力的な交わりの場である。
われわれが飽くことなく渇望するのは、その先に待つであろう既存の感情には置き換えられない一回性の体験である。そしてこの奇跡的な刹那への儚い欲望の、儚いが故の「うつくしさ」こそが真に「演劇的」な「うつくしさ」であると、血を零やして尚、何よりも尊び、ただただ肯定したいと思うのだ。
妄想は現実化する。これは信仰の問題だ。